『どうで死ぬ身の一踊り』 角川文庫
西村賢太著、この作品にはこ「墓前生活」、「どうで死ぬ身の一踊り」と「一夜」の三編が収められている。


西村賢太は先月、2022年2月5日に亡くなった。
死因は心疾患、タクシーに乗っている時に意識を失い、享年54歳。
石原慎太郎氏が亡くなって数日も経たないうちに。
石原慎太郎氏への悼む文を彼が2月2日付けで書いていたと新聞で読んでいたので奇縁だなと思った。

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220201-OYT8T50129/


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西村賢太の名前を知ったのは彼が芥川賞を受賞しそれが映画化された時だ。
受賞作は『苦役列車』。

ストーリーは覚えているのだが、それは読んだからなのか、観たからなのか
その辺りが覚束ない。

で、先日の彼の死をきっかけで本を探したけれど見つからない。
目当ての本は見つからなかったけれど、この角川文庫版の『どうで死ぬ身の一踊り』と出会った。


『苦役列車』然り『どうで死ぬ身の一踊り』も超私小説で、その内容はえげつないほど自分をさらけ出していて、すごくハードであまりにも生々しくリアル。
へぇ〜、家庭内DVってそれ?
そういう男に限って謝る時はこれ?
DVではないが暴力行為で警察沙汰にもなったこともあると言う。
そりゃあ、やられる当事者にとっては作家以前に最低な男だろう。


しかし、その内容に反してこの人の使う言葉は決して汚れてはない。
それが驚くところ。
寧ろ綴られる綺麗な日本語と語彙力はこの作家のどこに宿っているのだろうと、それを探しながら読んだ。


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この作品は「清造忌」のご案内から始まる。

清造とは西村賢太が人生をかけて傾倒した藤澤清造という作家だ。
藤澤清造は石川県七尾市出身の私小説作家で貧困と病苦果て、昭和7年1月29日東京芝公園で凍死した、とある。

西村賢太はこの作家に思いを寄せ、この不遇の作家に光をあて、その故郷で清造忌を営むようになった。

「何のそのどうで死ぬ身の一踊り」は藤澤清造の言葉。


この作品には七尾市と当時同居していた女と住む東京を行ったり来たりする生活が書かれているのだが、七尾市に現れる時の西村賢太と東京にいる時の彼はまるで別人でその違いも興味深い。
確かに自分(私です)とは無関係だからこそなんだけれど、私小説家たるにはこうでなければ、とも思う。



P.195
 寝室を出て台所に戻った私は、そこらに飛び散ったカレーの汁に目をやりながら、つくづく自分が恨めしくなってきた。
 どうして、清造がらみで得意の絶頂になると、いつもこうした事態が起きるのだろうか。私は原因であることには違いないのだが、しかし、どうしていつもあの女に足を引っ張られているような感覚に、とらわれるのであろうか。
 いつか女が、「あたしの九紫火星とあなたの六白金星って、どっちから見ても相性は最悪なんだって。絶対に相容れなくって、無理に力を合わせようとすると、共倒れになるらしいよ」なぞ言ってたことを思い出す。
 その女の、呻くような啜り泣きが、幽かに聞こえてくる。
 しばらくの間、女がまだほんの一切れしか齧ってないカツの残骸に目を落としていた私は、やがてゴミ袋をひろげると、その自分で仕出かした惨状を、まるで女がやったことのような腹立たしさを覚えながら、片付け始めた。
 脳中に、いつか辿り着くことになろう、藤澤清造の墓前を思い浮かべながら、そのママゴトのなれの果てを黙々と片付け始めた。
 


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そんな作家が死んだ。
あの女性は最後まで一緒だったのだろうか?

人生の師として慕い続けた藤澤清造の隣に建てた西村賢太自身の生前墓碑が七尾市西光寺にある。




メルカリじゃなくて『はなのすきなうし』岩波書店
メルカリじゃなくて『はなのすきなうし』岩波書店
数週間前にメルカリ始めました。
と言っても、まだ売るのは未経験で買うばかり。

本を数冊買いました。
中には2022年1月15日第5刷発行というのもあって、
えっ!まだ一ヶ月も経ってないのに手放すの?
それも定価920円(税込1,012円)のを送料込みで700円って。
ま、他人事だけれど(笑)

帯付きて新品そのもの。まだ印刷の匂いがするくらいにほやほや。
ページをめくっていたらレシートが挟まっていて
購入場所も日時もわかっちゃった(笑)
日付は2022年2月17日になっているので3日ほどでメルカリへ??!!
ご事情はあれど個人的には些か本に対して失礼じゃない?と思うわけで。

メルカリから毎日のように「売りませんか」のメールが入っている。
曰く「手続きを教えます。簡単です」なので
やってみたいけれど。
これって手数料どれくらいなのかなぁ?


時間のある時に本を自己査定(笑)してみるのだけれど
なかなか踏ん切りがつかない。
持っていても死ぬまで読むかどうかわからないのもあるのに^^


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「はなのすきなうし」という
1954年に岩波書店が発行した絵本が出てきました。

うちの子どもに買ったもので絵本と言っても絵は白黒でカタカナが使われてなくてひらがなのみ。

作者はアメリカ人だけれどお話はスペインの牧場で飼われている牛の話。
主役の牛の名前は「ふぇるじなんど」フェナンドじゃなくて?とちょっと違和感^^
スペインと言えば?(いえ、メキシコやフランスでも行われてたし) 闘牛(今はもうこんな事しはませんけど)なのでふぇるじなんども他の子牛たちと同じようにいつかは闘牛となる運命。

ストーリーは:


内容紹介(あらすじ)
昔、スペインにフェルジナンドという可愛い仔牛がいました。他の仔牛達は、跳ねたり、駆け回ったり、頭を突き合って暮らしていましたが、フェルジナンドだけは違います。ポツンとひとり、草の上に座って、静かに花の匂いを嗅いでいるのが好きでした。
牧場の端っこのコルクの木の下がフェルジナンドのお気に入りの場所。フェルジナンドはこの木の下で、一日中、花の匂いを嗅いでいました。
フェルジナンドのお母さんは、そんな息子のことが心配でした。独りぼっちで寂しくないのか気掛かりだったのです。ある日、フェルジナンドのお母さんは、他の仔牛達と遊ばないのか尋ねました。すると、それよりも花の匂いを嗅いでいるほうが好きなのだとフェルジナンドは答えました。
フェルジナンドが寂しがっていないのを知ると、お母さんはそれで一安心。フェルジナンドの好きなようにさせてやることにしたのです。

そうして年が経つにつれ、フェルジナンドはどんどん大きくなり、しまいには大きくて強い牛になりました。もう仔牛ではありません。
他の仔牛達もすっかり大きくなって、角で突き合ったり、頭をぶつけ合ったりしながら暮らしていました。マドリードの闘牛で、華々しく闘ってみたいと願っていたからです。
フェルジナンドは他の牛達と違って、相変わらずコルクの木の下に座って、静かに花の匂いを嗅いでいました。

そんなある日、変な帽子を被った五人の男が牧場に来ました。五人の男が探しているのは、一番大きくて、一番足が速くて、一番乱暴な牛。闘牛に出すための牛を探しに来たのです。
牧場の牛達は、勇ましく唸ったり、角で突き合ったり、猛烈に暴れまわったり、闘牛に参加するため、一生懸命に自分達を売り込みます。

一方、フェルジナンドは、いつものようにコルクの木の下に座りに行きました。誰もが憧れるはずの闘牛に、一切興味がなかったのです。
ところが、フェルジナンドがコルクの木の下に座り込もうとしたまさにその時、猛烈な痛みに襲われます。なんと、クマバチの上に座り込んでしまい、針で刺されてしまったのです。
あまりの痛さに、フェルジナンドは唸り声を上げて飛び上がると、頭を振って地面を蹴散らしながら暴れてしまいます。それを見て喜んだのが五人の男。フェルジナンドはマドリードの大闘牛に連れて行かれることになってしまいました。

そして、大闘牛の日になるとマドリードは大騒ぎ。フェルジナンドの凶暴な姿を楽しみにしているのです。
本当は、とても優しくて穏やかなフェルジナンド。大闘牛は一体どうなってしまうのでしょうか。

https://pictbook.info/ehon-list/isbn-9784001151114/ より



パソドブレが流れて闘牛士の登場。馬の上から槍で牛をついて興奮させ弱らせる役目を担うピカドールも控えています。ついに闘牛の登場、この時まで禁欲状態にされ興奮最高潮でとび出してくるはずなのですが、ふぇるじなんどは座り込んでしまいました。

とても優しくてそれでいて自分は自分でいいんだよという勇気がもらえて、親は子どもが寂しかっていないことが分かれば黙って見守る、という大切なことを教えてくれます。

この本の原題は『The story of FERDINAND(ふぇるじなんどのおはなし)』
なんですが日本語ではそれを『はなのすきなうし』としてあるのがいいな、素敵なセンスだとつくづく思いました。
翻訳者の光吉夏弥氏がつけられたのでしょう。


あの『星の王子さま』も原題はフランス語で:Le Petit Prince(小さな王子さま)
、英語:でも『The Little Prince』スペイン語では『El principito(小ちゃな王子さま)』なのでどこにも「星」という語は出てきません。
これも、内藤濯氏が岩波書店から翻訳を出した時に物語の内容を加味して『星の王子さま』という夢のあるタイトルにしたと言われています。

秀逸ですよね。


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北京の冬季オリンピックは全く観てないのですがニュースで流れてくる内容を知って、スポーツマンシップやら、スポーツの本来の意味、そしてなにより平和を掲げるオリンピックの意義について考えさせられました。

確かにスピードや技術はびっくりするほど、もう人間業を超えているほど登り詰めてしまった感があるけれど、この世界で傷つく若者の姿を見るにつけ
人間は本当に大切なものをどこかに置いてしまってきたように感じているのは私だけではないと思います。

自分のことを愛する方法を教えることはとても難しい。
でも、自分を愛せなくてどのように他の人を愛することができるのできるのだろう?
そして、もっと根本の「愛する」とはどういうことなのだろうか?と自問しています。


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で、メルカリ売買の話は何処へ?ww

数日前に孫たちに送る箱の中にこの本を入れました。
メルカリどころか(笑)









『看守の流儀』

2022年2月27日
『看守の流儀』
新聞の最下部にある本の広告。

「いやぁ、これは久しぶりのドストライクだった。」 横山秀夫(作家)
「2020年度ミステリーベスト10」池上冬樹 選
『このミス』大賞シリーズ累計3450万部突破!鮮やかな反転、驚きの結末! 胸が熱くなる刑務所ミステリー!



滅多に新聞広告で見て買うということはしないけれど、そこに書かれていた宣伝の謳い文句が気になって購入。

(ドストライクって?)
(2020年度だから新刊でもないのに?)
(3450万部の凄さの意味は?)
(鮮やかな反転、驚きの結末、胸が熱くなる刑務所ミステリーとはどんな感じなのか?)


刑務所に関する言葉や、そこで働く人々の人間模様も描かれていてあっという間に読了。

五つの短編で構成されていて、一話完結になっているので読みやすかったし、読みながら思ったけれどこれってテレビドラマ化できるよね^^


入試問題流出事件の「Gとれ」、大学の入試問題って刑務所で印刷されるのって聞いたことありますが、本当だったようです。
最後の「お礼参り」は確かに驚きだった。


謳い文句通りの刑務所ミステリー(謎?) でした^^





『素数たちの孤独』ハヤカワepi文庫
『素数たちの孤独』
パオロ・ジョルダーノ 著
飯田亮介 訳



スキー中の事故で脚に癒せない傷を負ったアリーチェ。けた外れの数学の才能を持ちながら、孤独の殻に閉じこもるマッティア。この少女と少年の出会いは必然だった。ふたりは理由も分からず惹かれあい、喧嘩をしながら、互いに寄り添いながら大人になった。だが、ささいな誤解がかけがえのない恋を引き裂く―イタリアで二百万部の記録的ベストセラー!同国最高峰の文学賞ストレーガ賞に輝いた、痛切に心に響く恋愛小説。
<裏表紙の解説より>





p.169 素数とは1とそれ自身でしか割り切ることができない。自然数の無限の連なりのなかの自分の位置で素数はずっと動かず、他の数と同じくふたつの数の間で押しつぶされてこそいるが、その実、みんなよりも一歩前にいる。彼らは疑い深い孤独な数たちなのだ。



素数と聞くと素因数分解が頭に浮かぶ、それは遠い遥か昔のことだけれど、詳細は今や不明。

著者は1982年生まれのイタリア人。トリノ大学大学院博士課程修了。専攻は素粒子物理学だからこのタイトルには納得できる。

齢70を前にするばあさんは(私ね)、そりゃあ誰でも唯一なのだから素数だろ、だから孤独だろ、なにを今更感はあるけれど、著者の年齢を考えれば(それに小説だし〜)一言で済ますと元も子もないのですがね。

日頃自身の孤独感や、他人から感じる独りよがりの寂しさや拒絶感をこういう本を読んで見つめ直すと同時に、この主人公二人のように自分で抱えてしんどい思いをしている彼らを前にすると、上手く紛らわせて生きるってそんなに簡単なことじゃないと素直に認めるけれど、生きるための術を知ることも必要だしね。

青春です、青春^^


どのみちその孤独感は自分で最後まで持っていくものなんだし、何やかやあってもこの二人はちゃんとそれを学んで自分のことは自分で引き受ける力を得たのだと思います。


些かタイトル負けしているけど、映画化もされたようです。





『悲しみの秘儀』 文春文庫
『悲しみの秘儀』 文春文庫
若松英輔 著/ 2019年

この文を読んだ時、躰の奥の方から何かがどっと溢れて、すぅっと広がって行くのがわかった。



p. 176
愛する気持ちを胸に宿したとき、私たちが手にしているのは悲しみの種子である。その種には日々、情愛という水が注がれ、ついに美しい花が咲く。悲しみの花は、けっして枯れない。それを潤すのは私たちの心を流れる涙だからだ。生きるとは、自らの心のなかに一輪の悲しみの花を育てることなのかもしれない。



十年あまり前に身近で大切な家族を立て続けに予期なく失って以来、もし生まれかわることあれば自分に子どもなんて要らない、結婚もしない、愛する人は要らないと思い続けていた。
それゆえ、動物を飼うのさえ今ではいやだ。

何故なら、生あるものは死ぬから。死ぬ理由は老いだけではない。当たり前だけれど。
大切な人の死と向き合うことは自分の悲しみを見つめることになる。
それは容赦なく辛く、自分と自分の本質をさらけ出す。


でも、言葉にはできないのだった。
吐き出せないのだ。
吐き出してもわかってもらえないと思うから。
同じ悲しみはないから。
胸の奥底にある土台が崩れそうになって、自分の存在も見えなくなることがある。
なのに、しっかり相手とつながっている感覚もあるから不思議だ。


p.014
人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。単に、悲しみを忌むものとしてしか見ない者は、それを背負って歩く者に勇者の魂が宿っていることにも気づくまい。



夜寝床に入ってから手に取りたい本。

悲しみが人間の本質の一つであることを美しい言葉で優しく語ってくれる著者。
その一つひとつがすとんと躰に降りてきて、私に睡魔が静かに近づいてくるのです。







『ガダラの豚』 集英社文庫
『ガダラの豚』 集英社文庫
中島らも著/ 1996年

ヘンなタイトル、だと思う。
ガダラの豚?
ガダラって何?誰?どこ?
と訝りながら、とにかく中島らもだから間違いない、
という思い込みだけで手に取った本。
だけど何故かしら?長らく読まぬままだった^^

またまた、いよいよ本を処分しようかと整理していたら
見つけました。

で、読み始めたらノンストップであっという間。
続きの【II】も【III】を早く読みたいと心は逸るけれど
まずはクールダウン(笑)


で、「ガダラの豚」の出所についてはプロローグの初っ端に書いてあります。


 それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。
 すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの関わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。
 さて、そこからはるかに離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。
 悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわせて下さい」
 そこでイエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中にはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
(マタイによる福音書第8章28〜32)



 だからガダラは地名ということになるのかな?
 ガダラ人が住むところ。

 
 
*作品情報
アフリカの呪術医研究の第一人者、大生部多一郎は、テレビの人気タレント教授。超能力ブームで彼の著者「呪術パワーで殺す!」はベストセラーになった。しかし、妻の逸美は8年前の娘・志織のアフリカでの気球事故での死以来、神経を病んでいた。そして奇跡が売り物の新興宗教にのめりこんでしまった。逸美の奪還をすべく、大生部は奇術師ミラクルと組んで動き出す。-



作家中島らもがこれを書いた時、素面だったのか?
(そんなはずは絶対にないけど 笑 )
この作品には彼のすべてが注ぎ込まれていると私には感じられるのですが(?)、言いたいことはやはりぶっ飛んでる、と言うことです。
考証もすごいと思うし、表現は少しくどいと個人的には感じるけれど、エンタテインメントと一言では言えない作品だと思います。
作家だな〜。それも一筋縄ではいかない。


 なるほど、人はこういう風にひっかかるのか!
 確かにそのトリックを知ると、こんなことで騙されるの?と思うけれど
善良な市民ならふつーに信じて、まんまと騙されます。

私はそれでもいいと思う。本人が満足して、たとえ束の間であれ幸せを感じることができるなら、誰に罪がありましょうか?

しかし、ひとたびこのカラクリを知ると世の中のすべてを疑ってしまいそうです。

作者はそんな人間の脆さを面白おかしく表現しているかと思えば、これって笑い事じゃないよね! 深刻なことよね、とたまに気づかせてもくれる。

中程からカルト宗教(と言っても微笑ましいのですが^^)が出て来るので、その時代を思い出してオウムに重ねているかと思ったけれど、どうかな?

微笑ましく書かれているのが逆に怖い!

なんかこの作者の警告のような気もしてくる。


まだ「ガダラの豚」の意味するところにはたどり着いていないけれど、
今後どうなるのか楽しみでもあり怖くもあり。



でも、しばらくは他の本の整理に勤しみます。



*ご記憶にある方もいらっしゃると思いますがユリ・ゲラー
 彼のスプーン曲げは超能力ではなくて"素人クラスの"手品だったんですね。
この本で知りました。と言っても、当時もぜんぜん興味なかったけどww






『僕が死んだあの森』 文藝春秋


『その女アレックス』で世界中を驚愕させた鬼才ルメートル、 まさに極上の心理サスペンス。

 あの日、あの森で少年は死んだ。
 ――僕が殺した。

 母とともに小さな村に暮らす十二歳の少年アントワーヌは、隣家の六歳の男の子を殺した。森の中にアントワーヌが作ったツリーハウスの下で。殺すつもりなんてなかった。いつも一緒に遊んでいた犬が死んでしまったことと、心の中に積み重なってきた孤独と失望とが、一瞬の激情になっただけだった。でも幼い子供は死んでしまった。
 死体を隠して家に戻ったアントワーヌ。だが子供の失踪に村は揺れる。警察もメディアもやってくる。やがてあの森の捜索がはじまるだろう。そしてアントワーヌは気づいた。いつも身につけていた腕時計がなくなっていることに。もしあれが死体とともに見つかってしまったら……。
 じわりじわりとアントワーヌに恐怖が迫る。十二歳の利発な少年による完全犯罪は成るのか? 殺人の朝から、村に嵐がやってくるまでの三日間――その代償がアントワーヌの人生を狂わせる。『その女アレックス』『監禁面接』などのミステリーで世界的人気を誇り、フランス最大の文学賞ゴンクール賞を受賞した鬼才が、罪と罰と恐怖で一人の少年を追いつめる。先読み不可能、鋭すぎる筆致で描く犯罪文学の傑作。




事件が起こったのは1999年12月末なのに、もう何十年も前の昔の印象を持つのは文章から感じる風景が理由かな?

私が個人的に持っているフランスの田舎のイメージ、その小さな村には木製玩具の会社があって住民の何割かはその会社の従業員、その経営者が村長…というと何となく旧い村社会を思ってしまう。

『その女アレックス』を読んだ時の印象があまりにも強く残っていて、何を思ったのか単行本をそれもこの5月に出版されたばかり...のを買ってしまった。(こういうのは文庫本になってから、図書館で探してからの鉄則を自ら破ってしまったのでした 涙)

原題は『Trois jours et une vie』三日と一生とでもいう意味かな?
邦題とはあまりにも違うので先ずそれにびっくり!
元い、
邦題があまりにも違うのでそれにびっくり!!!
邦題の方がより内容に近いし僕はあの時死んでしまったというのもご一考でございましょうが、こう変える必要があったのかは甚だ疑問に感じております。
原作者の許可はあるとは思うけれど。
イメージ変わるわ〜。
当たり前だけれど原題のまま訳した方がフランス的だし、その意味もより比喩的なものになったと思う。

第一部 199年 
第二部、2011年
第三部、2015年



いつ自分が犯人だとバレるのか?
あの友だちは僕のことを不審に思っているかもしれない?
え?これは脅しか?脅しとして取り扱うべきなのか?
しかし、心理サスペンスにしてはアントワーヌの怯えや計算が今ひとつ甘いし、新鮮さに欠ける。
いったいアントワーヌの代償は何?
ああ、あの結婚か。

それに比べれば母親の苦悩は
どんなもんだった?!
と思ってしまうのでした、私。







『ある男』 文春文庫
平野啓一郎の作品には何故か近寄りがたくて読んだことがなかった。
理由は哲学的な匂いを感じて私には難解に違いないという不安。


ところがお薦めされて、2ヶ月ほど前に彼の最新作『本心』を読み始めた。
その内容に興味を持ったし、意外と読みやすくてさくさくと読み始めたけれど、2回目のワクチン接種の副反応で体調を崩したのをきっかけに残り1/4ほどを残したままになってしまっている。


この数日で読み終えたのは同じ作者の『ある男』。
推理小説と言って良いのかな?
推理小説は最初に引き込まれるとつい結末を知りたくて速読=浅読みしてしまいますが、この読み方はそろそろやめたいと思っています。

ある男とは誰なのか?



弁護士の城戸はかつての依頼者・里枝から奇妙な相談をうける。彼女は離婚を経験後、子供を連れ故郷に戻り「大祐」と再婚。幸せな家庭を築いていたが、ある日突然夫が事故で命を落とす。悲しみに暮れるなか、「大祐」が全くの別人だという衝撃の事実が‥‥‥。愛にとって過去とは何か? 人間存在の根源に触れる読売文学賞受賞作。



2011年の東日本大震災はこの作品の重要な背景になっている。
まだこんなに多くの行方不明者がいるのですね。


東日本大震災・被災者数(2021年9月10日更新。
2021年3月1日現在:亡くなられた方(直接死) 15899人、行方不明の方2526人。2021年8月11日現在:避難者3万9816人)/ 東日本大震災・避難情報&支援情報サイトより
https://hinansyameibo.katata.info/category/被災者数 より



戸籍、在日、ヘイト/アンチヘイト、死刑廃止などの社会や政治問題。
所々に顔を出す音楽はJazz。
芥川龍之介の『浅草公園』、『アンナ・カレーニナ』、『変身物語』を読んでいたら作者の意図をもっと深く感じることができただろうに。



人生は重層的だ。
というより重なり合った層で成り立っているのが人生だ。
その重層の一つの層だけを取り出してどういう人間なのかと決めつけてしまうのが烙印だ。

Ϛ:スティグマ。
意味は烙印。
元はと言えば、奴隷や犯罪者の印。
烙印のある牛を牧場で見たことがある。
他と見分けるためにつけてあるのだろう。

しかし人間における烙印は、社会的スティグマで常に否定的な事象を意味するし、攻撃の材料にもなる。

この本にあるように、良かれ悪かれそういうスティグマだけを取り上げられると、その人間の持つ他の面が消されてしまうのは確かだし、アイデンティティを一つの何かに括り付けようとすることはありがちなこと。
そういうことをされて迷惑している人、苦しんでいる人は多いと思う。
考えてみれば殆どの人がそうじゃないだろうか。

どこに行っても全人生を否定されるようなスティグマを背負ってこれからも生きていかなければならないのなら... ...
過去を変えてみたい。
違う過去を持ってこれからの自分を生きてみたい。
あ〜、この願望もわかります。
これまで所詮不可能だと思っていたけれど、現実には不可能ではないのかも、
とこの本を読んで考え直した次第。

哀しい物語だったけれど、最後の里枝と悠人母息子の会話に救われる思いがした。


表紙のタイトル『ある男』の下には
『A MAN』とある。
何故わざわざ英語で?
このタイトルに深い意味があるのかないのかわからないけれど、
私はこだわってしまう。
深読みしてしまう。
ひょっとして何か意図がある?
作者に尋ねてみたい。

冠詞のa、難しいですよね^^




ある男とは誰なのか?

作品の構成から考えると、作者のいうある男は弁護士の城戸さんだと私は思っているけれど。







『じごくのそうべい』 童心社
『じごくのそうべい』 童心社
たじまゆきひこ 作
『しごくのそうべい』

小1の男の子と一緒に読んだら、
すごく喜んだ。
お父さんにも読んでもらったけれど
haちゃんが読むほど面白くはなかったそうです^^


そりゃあそうよ、これは上方落語の中でも傑作中の傑作ですよ。
イントネーションにしろ間の取り方にしろ、ここで生まれ育って70年になるhaちゃんくらいでないと雰囲気は出ませんって(笑)


男の子の母親である娘も「小学校の図書室でこれ読んだ時のこと今でも覚えてるわ〜。ホンマに面白いよね!」と懐かしがっている。


上方の古典落語「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」を桂米朝が発掘し、彼が今に通じるように練り直したものを原案にしてたじまゆきひこ氏が絵本にした『じごくのそうべい』。

これ名作です!




*読んでいるとたまに言葉の意味を訊かれます。
 間違って教えられないので緊張〜ww

 この本では「ふんどし」を訊かれました。
 難なく説明したけれど「あれっ! 女の人は何もはいてないよ。何で?」と。
 「腰巻だよ」と説明しておきました^^
そしたら、「何でふんどしじゃないの?」
 「さあて、何でかな?... ... (ほんのり分かってるけれど)調べておきます」^^







1982年軽井沢の夏『火山のふもとで』
「夏の家」では、先生がいちばんの早起きだった。
で、始まる松家仁之著『火山のふもとで』を読むのが好きだ。
舞台は1982年夏の軽井沢、この火山は浅間山です。

随分前にこの本を読んだことをDNにアップした記憶があって探してみたら
やはりありました。
2014年の5月なので7年前です。

https://gisele0129.diarynote.jp/201405042354398065/

たぶんこの時は一度目で著者の豊かな知識や表現の表層の部分にばかり気を取られていたようだし、その内容に自身の事も少なからず重ねて読んだ覚えがある。


そして何度か部分的に読み返したり、後半のみ読んだりする度にその中に込められた新たな想いに出会う。
熟しているのに新しいのが不思議だ。
決して強いアクセントを残すことなく、静かに沈殿して行く感じがする。
今は、今の自分と重ねることもできる。
どんな事も時を経て変わる、年老いてできることが少なくなる。
そして時を経ても決して変わらないこと、変えたくないことがある。


この本はどこで読んでも私を私の部屋に連れて行ってくれる。
この作品に巡り会えて幸せです♪♪



文庫化して欲しいな〜。




*読み直してみると、あれっ?! 違和感が。
 そりゃそうですよね、「新しいのに熟しているのが不思議だ。」はないですよ〜。
 で、こっそり書き換えておきました^^




『JR上野駅公園口』 河出文庫
『JR上野駅公園口』 河出文庫
東京へ行く時には新大阪駅から新幹線で東京駅か品川駅で降車する。
東からでは上野駅に着くというのが私の認識だ。

25歳の時北海道旅行の帰り、青森駅から夜行に乗って朝起きると上野駅だったことを思い出す。しかし上野駅の外には出ず乗り換えて東京駅に向かい大阪に戻った。
それ以来、上野に行くことはなかった。

ちょうど7年前の6月、初孫が生まれた時に予定に反して東京に一ヶ月半ほど滞在する機会があった^^
最初の数日は長男の住居と産院のある荻窪駅を往復する毎日だったけれど、3週間ほど経った頃から映画に行ったり美術館に行く時間が持てたので、上野にも足を運んだことがある。

この本を読んで分かった、私が上野駅で通った改札口は公園口だ。
駅を出ると公園の中にある東京美術館を目指した。

https://gisele0129.diarynote.jp/201407092115208229/


帰りに不忍池の端まで降りた。
梅雨空のどんよりした日で、人がいなくてそこにしばらくいた覚えがある。
池には蓮の葉がまだ時期ではなかったのかまばらだったし、ボートに乗っている人もなかった。
駅に戻る途中、アメ横にも行ったことも覚えているが、さほど記憶に残っていることはない。

だから私は上野駅公園口とその周辺のことはよく知らない。

そして、柳美里の作品もほとんど読んでいない。
何度も手にしたし、読み始めるのだが最後まで行き着かない。

この人の本を読むには体力が要る。
体だけではなく心の力の両方が。


この『JR上野駅公園口』も170頁足らずだけれど、毎夜少しづつしか読めなかった。


でも、これを読みながら、大阪市内でも随分少なくなったけれど、ホームレスの人々の様子は想像できる。


福島の相馬から出稼ぎに来て上野公園でホームレスになった彼の回想でストーリーは進む、だけれどその声はすでにこの世にいない死者の呟きのように私に響いた。


東電の福島第一原発の運転開始は1971年、双葉町や南相馬住民はやっと出稼ぎに行かなくても地元で仕事ができるようになった。
そして2011年の震災で再び彼らは仕事を失った。
この東京オリンピック2020の開催にあたっても建設業や様々な工事現場では福島からやってきた人たちが多かったのではないかと想像する。
彼らも父であり息子であるのだろうか?
震災で家を失った人、家族を失った人もいるだろうか?




P.155
 目と鼻の先に天皇皇后両陛下がいらっしゃる。お二人は柔和としか言いようのない眼差しをこちらに向け、罪にも恥にも無縁な唇で微笑まれている。微笑みから、お二人の心透けては見えない。けれども、政治家や芸能人のように心を隠すような微笑みではなかった。挑んだり貪ったり彷徨ったりすることを一度も経験したことのない人生−−−− 、自分が生きてきた歳月と同じ73年間−−−−、同じ昭和8年生まれだから間違えようがない、天皇陛下はもうすぐ73歳になられる。昭和35年2月23日にお生まれになった皇太子殿下は46歳−−−−、浩一も生きていれば46歳になる。浩宮徳仁親王を同じ日に生まれ、浩の一字をいただき、浩一と名付けた長男−−−−。
 自分と天皇皇后両陛下の間を隔てるものは、1本のロープしかない。飛び出して走り寄れば、大勢の警察官たちに取り押さえられるだろうが、それでも、この姿を見てもらえるし、何か言えば聞いてもらえる。
 なにか−−−−。
 なにを−−−−。
 声は空っぽだった。
   

 30歳の時に東京に出稼ぎに行く腹を決め、東京オリンピックで使う競技場の建設工事の土方として働いた。オリンピックの競技は何一つ見なかったけれど、昭和39年10月10日、プレハブの6畳一間の量の部屋でラジオから流れてきた昭和天皇の声を聞いた。

 「第18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します」

 昭和35年2月23日、節子が産気付いていた時に、ラジオから流れてきたアナウンサーの快活な声−−−−。

 「皇太子妃殿下は、」本日午後4時15分、宮内庁病院でご出産、親王がご誕生になりました。母子共にお健やかであります」





p.81
 土木は一万円、解体は一万円から一万二千円、電気工や鳶職の経験があれば、一万三千円から一万五千円の日当に交渉次第では上乗せもある。危険な仕事が嫌だったら、運転面免許証と携帯電話さえ持っていれば、日雇いの派遣に登録できる。ビルに入っている会社の引越しや、野外イベント会場の設営や撤去で日当六千円から一万円もらえるが、日雇いをやろうという意欲のある者は、コヤを畳んでドヤに移るだろうし、福祉事務所に頼って生活保護をもらう手立てを探すだろう。
 だが、この公園で暮らしている大半は、もう誰かのために稼ぐ必要のない者だ。女房のため、子どものため、母親、父親、弟、妹のためという枷が外れて、自分の飲み食いのためだけに働けるほど、日雇いは楽な仕事ではない。
 昔は、家族が在った、家も在った。初めから段ボーやブルーシートの掘っ建て小屋で暮らしていた者なんていないし、成りたくてホームレスに成った者なんていない。




P.13
 天皇家の方々が博物館や美術館を観覧する前に行われる特別清掃「山狩り」の度に、テントを畳まされ、公園の外に追い出され、日が暮れて元の場所に戻ると、「芝生養生中につき立ち入らないでください」という看板が立てられ、コヤを建てられる場所は狭められていった。

P.151
 横断歩道を渡ろうとしたら、信号が赤になった。還暦祝いの腕時計を見ると、12時39分−−−−、「特別清掃」の貼り紙には「午前8時30分から午後1時00分までの間公園内での移動禁止」と書いてあった。移動を禁じられた時間より前に公園に戻ったことはない。でも、戻ったとして、何の不都合になるのか? 何の違反になるのか? 何を害したり、侵したりするというのか? 誰が困って、誰が怒るのだろうか? 自分は悪いことはしていない。ただの一度だって他人様に後ろ指を差されるようなことはしていない。ただ、慣れることができなかっただけだ。どんな仕事にだって慣れることができたが、人生にだけは慣れることができなかった。人生の苦しみにも、悲しみにも……喜びにも……





2020年東京オリンピック・パラリンピック開催が決定した2013年以降、ホームレスは減り上野公園はきれいになっているそうだ。
そりゃあそうだろうと思う。


二人の弟の名は勝男と正男。
二人の学費のために出稼ぎに出たのだった。

65歳で亡くなった妻の名前は節子。
両親もなくなり家に戻って年金で何とか二人で暮らそうとした矢先に妻は亡くなった。

資格をとり東京で就職して間も無く亡くなった長男が浩一。
長女は洋子、大輔は末っ子の名前。
仙台に嫁いだ洋子の娘・孫娘は真里。

しかし、語る彼の名前は最後の頁まで見つけることはできなかった。




2020東京オリンピックまで六週間あまり。
開会式で現天皇は宣言なさるのだろうか?










『PACHINKO』下 文藝春秋
上巻を読了したのは三月の末。
図書館の予約待ちだった下巻を入手しあっという間に読み終えた。

前半の感想:
骨身を惜しまず本当によく働く一家。
無我夢中で働く姿が目に浮かぶようだった。
そして日本の片隅で懸命に生きて行こうとする家族の愛、私などには近寄れないくらいに強い。

中盤:
ノアが命を絶ってしまったこと。
ハンスがソンジャに「会わない方がよかったのに」と言った意味をずっと考えているけれど。
理解するにはもっと深く読む必要があるかと思う、作者にはどういう意図があったのだろうか?

後半:
この場合は移民というのか、出稼ぎというべきなのかそして留学もあったけれど、本筋から外れて私の頭の中には日本人の南米移民、日系人が浮かんだ。

ソロモンがフィービーに話したことはよく解る。
外国にいて目の前で日本に対する批判をされると正直とても居心地が悪い。
一方では素直に認める気持ちもあるけれど、他方では日本で住んでもいないのに外側から見ただけで何が分かる!と反論したくなることがある(ただし、言語の壁という大きな問題がある)ニュースだけでは伝わらない微妙なニュアンスや繊細な部分で。
自分の国以外のどんな国のことも十把一絡げな結論を出して欲しくないし、出したくないと思う。
恐るべきは知らないことから生まれる誤解だ。
間違った思い込みだ。

どこの国にも泥棒も強盗も殺人もある。
教養のある人もない人もいる。
善良な人も狡い人もいる。
ましてや人間の悩みなどもっと多様だ。
なので、一人ひとりの話を聞いて、この国民は!と一言で言い切れるものではない。
知るべきなのは今の状況に至った経緯だと思う。
そんなことを考えながら読みすすめた。



最後にある著者ミン・ジン・リーの謝辞には彼女がこの本を書くきっかけについても述べられている。
そして、これを読んだ。

p.350:本にするなら絶対に間違いのないものをと思ったが、その一方で、この分野に関する自分の知識やスキルがまるで足りていないという自覚もあった。その不安ゆえに膨大なリサーチをして、在日コリアンのコミュニティをテーマに長編の草稿を書き上げた。それでもまだ何かが違うと感じた。2007年夫の東京転勤が決まり、八月に家族で引っ越した。数十人の在日コリアンに現地で取材できたおかげで、私は書くべき物語を誤解していたようだと気づいた。在日コリアンは歴史の犠牲者であるかもしれないが、一人ひとりからじっくり話を聞いてみると、そういう単純な話ではないとわかったのだ。日本で会った人々の寛容さと複雑な心理を目の当たりもして自分がいかに間違っていたかを知り、それまでの草稿をすべてくず入れに投げこんで、2008年、同じ物語を一から書き直し始めた。



また解説には
p.361:
ニューズウィークの日本版コラムのための取材で、この作者は「私の夫は日本人とのハーフで、私の息子は民族的には四分の一が日本人だ。現代の日本人には、日本の過去についての責任はない。私たちにできるのは、過去を知り、現在を誠実に生きることだけだ」と語ってくれた。

とありました。

一世から二世、三世そして四世へと繋がりながらも明らかに変化しているものがあって、過去の歴史をまずは知ることから始めなければと思う。


文中にあったと思うが、パチンコ台の調整(当たる台かそうでない台か。もちろん商売上当たる台は少ない)によって玉の出が変わる。
玉は打ち方ではなくて(打ち方ってあるのかどうか知らないけど )選んだ台で所謂勝った、負けたが決まる。
釘に当たって跳ね返り次の釘に当たるパチンコ玉のような人生、自分ではどうにも出来ない予期せぬことが積み重なった結果の人生、このタイトルPACHINKOは、日本独特のパチンコ文化(?)に重ねられているのかと思う。
のは考えすぎかな(笑)





『ミッドナイトスワン』 文春文庫
内田英治著 『ミッドナイトスワン』を読んだ。

この監督の名前を知ったのはある偶然。
もちろん彼の作品など何も知らなかったけれど、私にとってはこの監督の名前を知ることになった経緯が重要(意味不明^^ww)

『ミッドナイトスワン』は昨秋の観たい映画リストのトップに入れていた。
その時に監督名を見て、
アノ内田監督!!
やった〜ぁ!!(笑 意味不明ですよね)

コロナで映画は見逃してしまったけれど、
数日前に散歩の途中でぶらりと寄った本屋でその文庫本を見つけた。
原作が本になっているとは知らなかった。



 草なぎ剛演じるトランスジェンダーの主人公と親の愛情を知らない少女の擬似親子的な愛の姿を描いた、「下衆の愛」の内田英治監督オリジナル脚本によるドラマ。故郷を離れ、新宿のニューハーフショークラブのステージに立つ、トランスジェンダーの凪沙。ある日、凪沙は養育費目当てで、少女・一果を預かることになる。常に社会の片隅に追いやられてきた凪沙、実の親の育児放棄によって孤独の中で生きてきた一果。そんな2人にかつてなかった感情が芽生え始める。草なぎが主人公・凪沙役を、オーディションで抜擢された新人の服部樹咲が一果役を演じるほか、水川あさみ、真飛聖、田口トモロヲらが共演。第44回日本アカデミー賞で最優秀作品賞を受賞し、草なぎも最優秀主演男優賞を受賞した。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
内田/英治
リオデジャネイロ生まれ。週刊プレイボーイ記者を経て映画監督となる。2014年の映画「グレイトフルデッド」が海外で注目されたことをきっけに、「下衆の愛」がスマッシュヒットを記録。東京国際映画祭、ロッテルダム映画祭など50以上の海外映画祭にて上映。イギリス、ドイツなどでも公開され、イタリアではリメイクもされた。作家性を前面に出したオリジナル脚本にこだわり、海外展開を視野に置いた映画作りを行っている。2019年にはNetflix「全裸監督」の脚本監督を担当して大きな注目を集める。




読みながら主役の草なぎ剛が頭に浮かぶのが良いのか悪いのか。
本の前半は、言い方悪いけれども、三文小説のような感じがして(原作というより脚本だからかしら?)
映画を観る必要はなかったかな、と思った。
台詞もいちいち陳腐に聞こえたり、どこにでもあるステレオタイプのジェンダーを描いているように思えたから。
でも、後半からは色んな場面で主人公凪沙と一果の心の中のとても繊細な部分を見て心が揺さぶられた。


本は今日の午後、あっという間に読み終えた。
この本は内田監督との縁を取り持ってくれた友人にプレゼントする。
去年の秋、この映画が公開されるので観に行きたいと彼女と話した時、
まさか日本アカデミー賞の最優秀作品賞を獲得するなど夢にも思っていなかったので
(個人的に)すごくうれしい(まだ観ていないけど 笑)


ネットで予告編を見つけた。
https://www.youtube.com/watch?v=2O8-2DvOxiI

是非本編を観なければ。






『オリーヴ・キタリッジの生活』 ハヤカワepi文庫
エリザベス・ストラウト 著
小川高義 訳
『オリーブ・キタリッジの生活』を読んだ。
これも翻訳の巧さに助けられてストレス無しで読み進めた。




内容
(「BOOK」データベースより)
アメリカ北東部にある小さな港町クロズビー。一見何も起こらない町の暮らしだが、人々の心にはまれに嵐も吹き荒れて、いつまでも癒えない傷痕を残していく―。住人のひとりオリーヴ・キタリッジは、繊細で、気分屋で、傍若無人。その言動が生む波紋は、ときに激しく、ときにひそやかに周囲に広がっていく。人生の苦しみや喜び、後悔や希望を静かな筆致で描き上げ、ピュリッツァー賞に輝いた連作短篇集。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ストラウト,エリザベス
1956年にメイン州ポートランドで生まれる。第一長篇『目覚めの季節エイミーとイザベル』(1998)でオレンジ賞とPEN/フォークナー賞の候補となり、“ロサンゼルス・タイムズ”新人賞および“シカゴ・トリビューン”ハートランド賞を受賞。第二長篇Abide with Me(2006)を経て、2008年に発表した『オリーヴ・キタリッジの生活』は全米批評家協会賞最終候補となり、2009年度ピュリッツァー賞(小説部門)を受賞した




薬局
上げ潮
ピアノ弾き
小さな破裂
飢える
別の道
冬のコンサート
チューリップ
旅のバスケット
瓶の中の船
セキュリティ
犯人


作品は全13篇からなる。
全篇にオリーヴ・キタリッジが主人公として登場するわけでもない。
「薬局」「上げ潮」「ピアノ弾き」の中ではほんの端っこに彼女の姿が見え隠れしているだけ。


悪妻だし、教師としても何だかイマイチだし、一人息子を溺愛、どんな嫁も気に入らない、彼女にとっては気にくわない人間ばかりだし、こき下ろし名人、心の中ではしょっちゅう誰かに悪態をついているし、謝ったことがないし、他人に対して素直だとも言い難い癖の強い女性だけれど、自分に嘘をつかない本当の正直者とは彼女のような人のことだろう。


後半の「チューリップ」を境に彼女は自身の老いを感じ、戸惑っているように見える。
読み進むうちに彼女の人間像と存在が徐々に見えてくる。

第一印象は悪いけれど、時間を経れば自分(読み手)も相手も変わって理解し合えることは往々にしてあることだ。

彼女は言った、
「いいことばっかりじゃないのよ。その年になって、わかんないの?」
共感するわ〜、(当たり前のことだけれど)。
善悪取り混ぜての人生だもの。

全てに善き人がいないのと同じように全てに悪の人もいない。
そんな相手の底流に存在するモノに気づけば、
歳を重ねることも悪くないと思える^^
中でも孤独について語るには重ねた年月が必要だな、と強く思った。


興味深く読んだのは「セキュリティ」と「川」。
ふふふと独り笑いしたり、しんみりしてしまったりしながら読んだ。


全編苦みばしっている(笑)
かっこいい苦味ばしりではなくて甘さがまったくないという意味で。
でも、苦味にも慣れてくればそれなりの(美味深さと言うより)滋味深さを覚えて止められなくなる、そんなお味の作品でした。





『リスボンへの夜行列車』 早川書房 と映画『リスボンに誘われて』
原題 『Nachtzug nach Lissabon』
著者 パスカル・メルシェ
邦題 『リスボンへの夜行列車』
訳 浅井晶子



古典文献学の教師ライムント・グレゴリウス。
57歳。ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語
に精通し、十人以上の生徒と同時にチェスを
指せる男。同僚や生徒から畏敬される存在。
人生に不満はないー
彼はそう思っていた、あの日までは。

学校へと向かういつもの道すがら、
グレゴリウスは橋から飛び降りようとする
謎めいた女に出会った
ポルトガル人の女。彼女との奇妙な邂逅、
そしてアマデウス・デ・プラドなる作家の
心揺さぶる著作の発見をきっかけに、
グレゴリウスはそれまでの人生をすべて捨て
さるのだった。彼は何かに取り憑かれたように、
リスボンへの夜行列車に飛び乗るー。

本物の人生を生きようとする男の
魂の旅路を描き、世界的ベストセラーを
記録した哲学小説。
                 
   


わぁ〜、ヨーロッパだ! EUだ!!
飛行機のチケットを予約する必要もない。
パスポートも必要ない。
ま、クレジットカードや現金は持っていなければ難しいかもしれないけれど、
思いついたら、そうしたいと思ったら列車に飛び乗ればいとも簡単に外国に行ける。
もちろん長距離夜行バスでも可能。
陸続きってこういうことなんですね。
東へ東へといけばアジアの大国、中国だって横断できる。
親友の息子は自転車でそれをしようと準備に励んでいたけれど、コロナで行けなくなってしまった。


昨年、親友と私がビルバオの空港で落ち合って、飛行機でポルトに降りたのは3月2日の夕刻だった。
僅か2泊の滞在中、青空は滅多に見れなかったが、かと言って傘が要るほどでもなくて空の下を親友と歩き回った。
この街並みはお世辞抜きで美しい。
歴史を感じるサン・ベント駅の構内の壁面にはポルトガルの伝統的なアズレージョという青いタイルが貼られていて、足を踏み入れると おお!と声が出てしまった。
三日目の午後には電車でコインブラへ、その後はリスボンへ向かったのだった。
この一年間、何度あの時の風景や光景を思い出したことだろう。
そこで過ごした僅かな時間が今では夢のようだ。


この作品の主人公スイス人(ヨーロッパの山の国)のグレゴリウスにとってもリスボン(ヨーロッパの最西端、目の前に海が広がる場所)で過ごした日々は夢のようだった、かも知れない。



p.270
それに、我々の存在は時間的に拡大するばかりではない。空間においても、我々は目に見えるものをはるかに超えて存在する。ある場所を去るときには、そこに自分の一部を置いてくるのだ。だからそこを離れても、同時にそこに留まっている。その場所に帰ることによってのみ再発見し得うる部分が人にはある。列車の車輪が単調な音を響かせて、我々が歩んだ人生の一部分を ー それがどれほど短い期間であろうと ー 過ごした場所へ近づくとき、我々は自分自身に近づき、自分自身へと旅するのだ。異国の駅を二度目に踏み、スピーカーからの声を聞き、その場所に独特の匂いを嗅ぐとき、我々はただ遠い場所へ来たというだけではない。自分自身の内面の深奥、自身の内の、もしかしたらほとんど訪れることのない遠い一隅、どこかほかの場所にいたなら、すっかり暗闇に沈んだまま、目に見えることもない一隅に、到着したとも言えるのだ。... ...。



この作品を原作にしたDVDも観た。
そのまま邦題にすればいいのに、何故か『リスボンに誘われて』ですって^^

映像の良さはある。(キャストが良かったです。ジェレミー・アイアンズ、シャーロット・ランプリング、ジャック・ヒューストン きゃっ!最高!!)
時間的制約もありかなり端折られているのは許容できるけれど、物語の軸がどう考えても原作とあまりにもとかけ離れている気がして、映画だけ見るとたぶんこの作品の良さを知ることはないだろう。
読んでいる途中でDVDを観たので、その後はジェレミー・アイアンズがグレゴリウスになってしまった。いや、グレゴリウスがジェレミーになったのかな (笑)


一文一文、一語一語に集中して読んだのは、ストーリーにも増して言葉自体を大切にする書だと思ったから。アマデゥ・デ・プラドが凄すぎる。何と、何と!!

1974年のポルトガルの(無血だなんて嘘) カーネーション革命前夜を舞台にしたこの作品は、言葉を以ってどこまで人間の深みに触れることが可能なのかを示唆する哲学書のようで、理解するのは容易ではなかった。
でも、翻訳の上手さに大いに助けられた。




https://eiga.com/movie/79780/







『PACHINKO』上 文藝春秋
やっと読みました。
大学の図書館で借りました。
下巻は貸出中なので予約してきました。

翻訳者のおかげだと思うけれど、とにかく読み易い。
立ち止まることなく私は淡々と読んだ。
ストーリーが淀まない。

一晩で読み終えそうな勢いだったけれど (笑) 、自重して二晩で。

邦題『パチンコ』
ミン・ジン・リー 著
池田 真紀子 翻訳


全米図書賞、最終候補作。
四世代にわたる在日コリアン一家の苦闘を描いて全世界で共感を呼んだ大作、ついに日本版刊行成る!

日本に併合された朝鮮半島、釜山沖の影島。下宿屋を営む夫婦の娘として生まれたキム・ソンジャが出会ったのは、日本との貿易を生業とするハンスという男だった。見知らぬ都会の匂いのするハンスと恋に落ち、やがて身ごもったソンジャは、ハンスには日本に妻子がいいることを知らされる。許されぬ妊娠を恥じ、苦悩するソンジャに手を差し伸べたのは若き牧師イサク。彼はソンジャの子を自分の子として育てると誓い、ソンジャとともに兄が住む大阪の鶴橋に渡ることになった……

1910年の朝鮮半島で幕を開け、大阪へ、そして横浜へ――。小説というものの圧倒的な力をあらためて悟らせてくれる壮大な物語。構想から30年、世界中の読者を感動させ、アメリカ最大の文学賞・全米図書賞の最終候補作となった韓国系アメリカ人作家の渾身の大作。



作者 ミン・ジン・リー

リーは韓国ソウルに生まれ、1976年、7歳のときに家族とアメリカ合衆国に渡る。
両親が卸売宝石店を経営していたニューヨーク市、クイーンズのエルムハーストで育つ [1]。 移民一世であるリーはクイーンズ公共図書館に通って英語の読み書きを覚える[2]。ブロンクス科学高校を卒業。イェール大学に進学し歴史学を学ぶ。その後にジョージタウン大学ローセンターで法律を学んだ 。
1993年からニューヨーク州で企業内弁護士として働くが、1995年には執筆活動に専念するために辞める。リーはニューヨーク市ハーレムに、日本人の血を引く夫、クリストファー・ダフィーと息子とともに暮らす [3]。2007年から2011年までの4年間は東京に住んでいた[4]。
作家としてのリーに最も影響を与えた作品として、 ジョージ・エリオットによる『ミドルマーチ 』、 オノレ・ド・バルザックによる「いとこのベット』 、そして聖書が挙げられた[5]。
リーは、韓国の朝鮮日報の「モーニングフォーラム」特集の英語コラムニストとして3シーズンの間執筆を行った[6]。
また、ライティング、文学、政治学についての講義をコロンビア大学、アマースト大学、タフツ大学、ロヨラメリーマウント大学、スタンフォード大学、ジョンズホプキンス大学(SAIS)、コネチカット大学、ボストン大学、ハミルトン大学、ハーバード・ロー・スクール、イェール大学、梨花女子大学校、早稲田大学、アメリカンスクール・イン・ジャパン、世界女性フォーラム、アメリカ大使館のアメリカンセンターJAPANなどで行ってきた。彼女は現在、マサチューセッツ州のアマースト大学でライター・イン・レジデンスとして招致されている。

Wikipediaより抜粋




歴史が私たちを見捨てようと、関係ない。
冒頭に出てくる文章が印象的だ。

まだ上巻だけだけれど、舞台が終戦前後の大阪猪飼野に移ってきたあたりから想像が膨らんだ。
彼らがまだオリジナルなパワーを持っていた時代を思った。


大阪市内には、東京でいう山手線のようなJR大阪環状線が通っている。
大阪駅のある北から西に向かって南へそして東を回って北に戻るのが内回り。
逆周りは外回りと呼んでいる。
環状だから輪だ。
大阪城はその輪のやや南よりで東半分くらいに位置する、ってこれは私の想像ですが。
ようするに大阪城はこの輪の中にある、ということを言いたい。

私が高校生の時に環状線を使っていたけれど、1960年代後半のその頃は朝はすごいラッシュで押され押されてもう通学カバンは持っている感覚はあるけれどどこにあるのか分からない(見えない)し、一緒に乗ったはずの友達とはそれぞれに押し込まれる流れが違うと下車するまでしばしのお別れ状態だった。
思い出した、痴漢も多くて酷かった。
ある時降りたら同じクラスの女子がスカートを切られていたことがあった (怖!)
触るのは突如欲求に駆られて (もちろん許せないけれど)とある意味分かるけれど、あのひだスカートはハサミで切られて蛇腹のようになっていた。しかし、あの押し込まれた状態でどうやってハサミを上手く使うことができたのだろう?

環状線のどんな駅でも、降りると出口が左右に分かれている。
その輪の内側と外側だ。
内側と外側では空気が違う。
内側と外側では区名が違うのだ。

私が通っていた高校はいわゆる当時の文教地区にあったので、内側へと進む。
外側へ進むとすぐに商店街があって、部活帰りにはそこのメインストリートから少し外れた路地にあるお好み焼き屋直行して腹ごしらえして駄弁ってから帰路に就いたものだった。

話がそれてきている... ...笑



環状線のちょうど東に位置するのは鶴橋という駅だ。
その頃は私鉄の乗り換え駅だったので乗降客が多かったし、ここで降車するクラスメートもいたし乗り換えている人も多かった。

その駅に着いてドアが開くと必ず香ばしいような食欲をそそる匂いがする。
ずいぶん後になってからそれは焼肉だと知った。
それからまたずいぶんと時間が経ってから鶴橋の有名なお店で食べる機会を得た^^
焼肉を食べに行った時に改札口を出るとすぐに細い路地が入り組んでいる商店街があるのを知った。
この近くにコリアタウンがある。

それ以後、時々この駅で降りるようになった。
商店街では何軒ものキムチの店(何種類ものキムチ!!)、雑貨店、韓流アイドルのグッズ店やそれはそれは美しいチマチョゴリのお誂え店がある。ここを抜けてしばらく歩くとコリアタウンのメインゲイトが見えてくる。
数年前にここまでやっと行ったことがあるけれど昼間だったので半分以上のお店は閉まっていた。冬の寒い日だったけれど観光客も多かった。若い女の子たちがアイドルショップでブロマイドやグッズを選んでいた。
百済神社もあった、と思う。


私が通っていた高校は、当時では珍しかったかな?、卒業した年は学年全員進学(浪人はいたけれど)だった。当時の3年は5クラスあって理系志望、文系志望に分けられた。理系は断然男子が多いのだけれど十数名の女子がいた。そしてその女子のほとんどが医学部志望。
親しい友達2人が医学部志望だった。
Fさんは家業が医者。
もう1人のMさんは2人の兄も医者で、家業はパチンコ店。
彼女の口癖は「医学部に行くこと」だったし、彼女はその理由を私たちに説明してくれていた。
どちらにしろ、名前ですぐに彼女が日本人ではないことは知っていた。
ただ、私の無関心さと無知から、彼女の家庭が北なのか南出身なのか、それを確認することはなかった。
そして、彼女は私立大学の医学部に進学した。


そんなことを懐かしく思い出しながら上巻を読み終えた。



* 美藤さん、はちさん^^
 
上巻のみですが読了。
まだパチンコは影も形もないですが、そのうち現れるのかしら?
下巻が待ち遠しいです。







『料理人』 ハヤカワ文庫

ハリー・クレッシング 著 『THE COOK』
一ノ瀬直二 訳『料理人』を読んだ。


この作品の出版は1965年なので半世紀以上経っています。
当時、作者のプロフィールは公表されていなかったらしく、そのあたりは謎といわれている(らしいです)。
その日本語訳者である一ノ瀬直二さんも、2015年に亡くなった詩人で翻訳家の加島祥造氏のペンネームであったことが彼の死後に発表された、というのも興味深く思った。


主人公の料理人コンラッドの風体が私好みだったからなのか、作品は大人のおとぎ話風だったけれど、最後に「あらま!」という状況になって、その辺りまではまだ許せたのだけれど(笑)、最後の最後にはもう「え〜っ!!」でした。
読み終えてから思い返せば、確かにそうだったよな、と。
ファンタジーと思い込んで読んでしまって、まんまと引っかかってしまった、のでした。
最後はなかなかブラックでした。

50年以上前に書かれた作品だけれどもまったく旧い感じはないし、私にとっては好きな作品の一つになりそうです。

2002年に第17刷ということなので結構売れた作品なのではないかな。










『推し、燃ゆ』  河出書房新社
読みたい記事があったので文藝春秋三月特別号を買った。

表紙に「芥川賞発表 受賞作全文掲載&選評 宇佐見りん『推し、燃ゆ』」
ああ、そうか。
芥川賞の発表があって、史上最年少?いや、二番目それとも三番目だったかな。
若い現役大学生が受賞したことは知っていた。

滅多に最新作というのは読まないのだけれど、これも巡り合わせ^^わざわざ単行本を買うことなく読めるのだから。

第百六十四回芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』宇佐見りん 作、を読んだ。


私みたいなおばあちゃんは先ず「推し」という言葉の意味が的確に捉えられない (おっと、ここで「おばあちゃん=流行り言葉の意味がわからない」は差別発言に抵触するかも… …でも、私は正真正銘のおばあちゃんだから大目に見て下さい^^ )

推しメンという言葉は数年くらい前に知り合いの異国に住む若い女性を介して知った。
彼女は当時のAKB48のファンだった。
メンバーの中で自分が推す人、これが推しメンだ。
ファンやご贔屓ではダメなのか?と単純に思ったけれど、確かに普通のファンとは違う何かを私も感じた。それは入れ込み方なのか、応援の仕方なのか、それとも彼女の生活にとっての「何か」なのか。
そこでは「推しメン」と呼ぶことに意味があったのだろう、きっと。
だから、この本では「推し」と呼ぶべきなのだ、きっと。

そんな異国に住む彼女のことを懐かしく思い出しながら読み始めた。

上手く折り合えず辛い現実に直面している女子高生はアイドルグループの真幸を「推す」。彼女にとってその「推し」は全てだ。
「推し」の全てを解釈したい、推しの発言を聞き取って書き留めたものは何冊ものファイルに綴じられている。CDやDVD、コンサートに行けばそこで売られているグッズをすべて手に入れる。CDやDVD等を鑑賞用、保存用そして貸出用と必ず三つ揃える。
そのためにアルバイトをしている。
そのためにだけなら居酒屋でもアルバイトができる、手際の悪さをしょっちゅう注意されても。
「推し」を自分なりに解釈するためが生活のすべて。
高校も途中で辞めた。

その推しが燃えた。ファンを殴ってSNSが炎上している。
その出来事が発端となり物語が進む。

彼女が何か障害を抱えていることが見えてくる。
だからこそ「推し」の存在が必要なのだ。
読みながら、破滅に向かっているのではないかという思いが湧いてくる。
それは若いからでもあり、弱いからでもありそして「推し」が存在するからでもあり。
こういう痛みがある、痛みがやけに生々しい、そしてその痛みは確実に伝わってくる、とおばあちゃんはそんなことを思い出した。

「推し」とは、たぶんだけれど、おばあちゃんの判断では
「推し= 全身全霊」、それがすべて。
生きるために不可欠なもの。



短い文章が読み易い、ゆえにスピード感もあって
あっという間に最後にたどり着いた。


最後の二行、

−−− 二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。


この後、彼女はどうなるのか?という余韻を残して。
(これはありがちですね。読者に委ねられるのでしょうか)



受賞者インタビューも掲載されていて、これがよかったです。

宇佐見りんにも13歳の時から8年間推している「推し」の俳優がいると前置きしている。

宇佐見: 今の世の中、他律的な生き方は否定されがちですよね。でも、誰しも自力で歩いていくのが難しいときが絶対あると思うんです。そういうときに、「自分の足であるけ。生きろ」というのは冷たくないかなと。「生きてさえいればいい」なんて言いますけど、ベッドに横たわってもう全然動けない、だから何もしない、ということって誰も許してくれないですよね。そんな生きづらさをなんとか凌いで前に進む方法の一つとして、推しを推すことに人生を懸けることもあるんだよ、という現実を書きたいと思いました。 推しなんてただの趣味で、自分を預けるべきではあいという見方もあると思います。実際にそういう感想も目にしました。私もそれがおおっぴらに許されるべきだと主張したいのではありません。でもそこに切実な現実がある、そうやって生きている人がいる、そのことをそのままに描写したいと思いました。

 (hana) ああ、これは若いからとかそういうことではないですね。すごくわかります、経験者として。私も自分を預けていたなぁ、と。とっても密かにだったけれど。
自分で自分を許せたらそれでいいんじゃない? と今は思えます。


宇佐見:よく「明けない夜はない」というようなことを言う人がいますよね。もちろんそれはその人にとっての真実だと思うのですが、私は「明けなさ」もあると思っていて。私は、少なくとも三年のあいだ「夜が明けない」状況で出口が見えなかった。だから「明けない夜はない」とかそういうことは言えません。自分にとって本当に大切だった人や時間が壊れていく喪失感や痛みにどう耐えるか、耐えられなくても現実とはどういうものか、そういうことに関心があります。


(hana) 自分の世界と現実とギャップの中での絶望や痛み、誰しも覚えがあるのではないでしょうか。耐えても耐えられなくても、越えられなくても現実は常に横たわっているのだから。






『国語教師』  集英社
ユーエディト・W・タシュラー 著
浅井晶子 訳
『国語教師(Die Deutschlehrerin)』を読む。

著者はオーストリアの女性作家で出版されたのは2013年。
日本で訳本が出たのは2019年5月とまだ新しい。
聞いたこともない作者だし単行本なので、滅多に焦って(?) 買わないのだけれど、この浅井晶子さんの訳本をまた読みたくてAmazonで思わずポチってしまった。


内容(「BOOK」データベースより)
十六年ぶりに偶然再会した、元恋人同士の男女。ふたりはかつてのように物語を創作して披露し合う。作家のクサヴァーは、自らの祖父をモデルにした一代記を語った。国語教師のマティルダは、若い男を軟禁する女の話を語った。しかしこの戯れこそが、あの暗い過去の事件へふたりを誘ってゆく…。物語に魅了された彼らの人生を問う、ドイツ推理作家協会賞受賞作。



届いた日の午後に読み始めたら止まらず。
その日の夜中に寝床の中で読み終えました。


過去の話が始まるのは二人が再会することになる2011年の秋から。
それが16年ぶりの再会というのだから1990年代が過去の話の舞台となる。
二人のメールでの遣りとり、実際に再会してからの会話、またはそれぞれのひとり語りが時系列ではなくて前後しながら進む。
その絡み合いがまったく読み難くないのは作者の技量だと思うし、それはとても新鮮だった。

本当にやってられね〜よ! とあきれ返るほどのいい加減なろくでなし男なんだけれどなかなかのハンサム、優男。で、いますよね?そんな男に惹かれる堅実で聡明な女性って。

恋愛には賞味期限がある、と私は思っていますが、その賞味期限にも温度差はあるようで、この物語では二人が語る噛み合わない言葉のちぐはぐも最初は笑える。途中である誘拐事件の話が組みこまれてくるけれど、それがこの作品の軸になっているとは思えない。

これはミステリーでも推理小説でもなく、恋愛小説ですね。

先日読み終えた同じ訳者の『リスボンへの夜行列車』にとても感動したので期待しすぎたようです。もちろん訳者がせいではありません。
その本についてはまた後日。





『いのちがけ 加賀百万石の礎』
砂原浩太朗 著 『いのちがけ 加賀百万石の礎』を読んだ。
歴史に大変疎い(知識がない 恥)なので、歴史小説を手に取ることはあまりないのだけれど、前田利家・加賀百万石 くらいは知っています(笑)


非才にして無名。されど見事な生涯。若き浪々の日々も、大名となった後も、常に前田利家に付き従い幾度もその危難を救った男―村井長頼。桶狭間、長篠、賎ヶ岳…名立たる戦場を駆け抜け、貫き通した忠義の生涯。そして、主君の肩越しに見た信長、秀吉、家康ら天下人の姿―。


フィクションといえ史実に沿っているので私のような歴史に疎い者にとっては勉強にもなります^^



金沢は大好きな街。
4年前のちょうど今頃異国の親友と訪れた時は大雪で人気の少ない金沢城ではコースアウトして膝上まである雪の中にダイヴした(笑笑) もちろん雪合戦も♪

それ以前にひとりで行った時も冬、霙模様の中を歩き回った 。
この時は帰りに加賀温泉でも一泊したのだけれど、何しろ外は霙で外出せずに温泉三昧、三つある家族用露天風呂に入り倒したのでした。雪を観ながら最高だった♪



で、この作品の感想でございましたね。

歴史音痴の私でもとても読みやすかったです。
特に最初の数ページに描かれる前田又左衛門利家の輪郭にぐっと引き込まれてしまった私。
利家ファンクラブ会員になりたい(笑)


あの戦国時代の絡み合った、
と言うのは,
どこそこに人質として娘を嫁がせたとか、妹の夫を殺したとか、そして未亡人となったその妹をまたまた誰それに嫁がせたやら、もうあんたそれでも人間か!?、それもこれも領地を広げ時の権力を得るためですよ??
戦いで首とったら出世、何と血なまぐさい
即ち戦国時代であります。
読みながら、こいつら全員地獄行き〜、と独りごちたことが幾度もww


ただ、この作者はとても品良くこの時代を描いていました。
前田家と織田家の繋がり、当然ほんのちらりと明智光秀も登場していて、少なくともこの作者は彼を好意的に表現していて、ということは信長にはなかなか厳しい... ...。信長は温かみを感じさせない人物像でした。
大河ドラマの「麒麟」は観ていなかったけど、どういう結末だったのでしょう?


あと、読めない漢字、意味が明確でない漢字が出てきても、日本語なので文脈で意味は朧げながら読み取れるのですが、びっくりするほど初めて見る漢字が出てきました(もちろん個人的な見解です)

暇な私は、いちいち漢和辞典・国語辞典で調べて書き出すという作業に。
どんだけ暇?
ざっと80語ほどあるんですよね。
どんだけ無知?

で、わざわざそんな語を使わずともと思うほどのもあるのですけれど
こんだけ知ってる作者をリスペクトしてしまいました。

だいたい、最初に出てきた傾奇者でひっかかってしまい(たぶんこの漢字は普通に読める漢字です。私が知らなかっただけ )
弑逆とか斃すとか殲滅とか騒擾とか、
頽勢なんて退勢と書いてよ! 友のことを友垣と表現するのは許容範囲だけれど。
という具合に画数の多いのばかりで拡大鏡必須(笑)
書き出していたらいつの間にか80語^^

それにしても何と豊かな日本語?いや漢字です。

書いただけでぜんぜん覚えていませんけど。
今、同じ語が出て来たらまた辞書引くと断言できます。
自慢じゃないけど^^


ちなみに主人公は前田利家の家臣村井長頼。
かっこいいのは前田利家。
だって、利家のかっこいい像を作ったのは長頼です。







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