糾すと糺す
糾す(ただす)は
糺す(ただす)とも書きますが
それぞれの文字に持つイメージは随分と違います。

糾弾という言葉の意味をこれまで深く考えたことがなかったです。
確かに日常で"糾弾"という言葉を使うのは抵抗がありますね。


『差別原論 《わたし》のなかの権力とつきあう』を読んでいます。

「差別」は社会の永遠の課題かもしれません。
「差別」を批判することは簡単だけれど
「差別」をしたことのない人間なんているはずがない。
 そして、たぶん「差別」されたことのない人もいないはず。

「差別」したことがないと思っている人はそのことを認識できてないだけで、
「自分は普通」「自分はその他大勢」
「普通」は「差別」とは関係のないと所の存在と思うなら
「うちなる権力」を自覚せよ、ということなのでしょうか?

 一方的に押し付けれられたその時代の常識が
 この「差別」を生む原因となっていることに
 気づくきっかけになります。
 罪なく、無意識…


 あなたの「普通」が誰かを傷つけているかも知れないです。



 なんて、こんな風に書くと難しい本だと思われるかも知れませんが
 差別反対や専門的な法律を述べているのではなくて
 我々はどうして差別してしまうのか?
 を考えさせてくれる本だと思いました。




 珍しく読むのに時間がかかって
 第4章まで。







コメント

lister
2013年10月4日13:52

一度読んでみたい本ですね。差別について無関心であることが差別ということなのでしょうか。

糾すに糺す、自己をただすのか、他人をただすか、ということにも関係がありそうですね。

修論、頑張ってくださいね(←こういうのが一番嫌なプレッシャーになるんですよね・・・笑)

ミハーハハ
2013年10月4日13:57

差別とはなんて悲しいものなんでしょうね。
自分自身では差別こそが人間の中の汚い感情だと思っていますが、
確かに心のありようで、差別していることに気がつかないこともあると思いました。

いままで差別についての本は読んできましたが、差別をしてしまう心についての本は読んだことがありませんでした。ぜひ読むべき本ですね。紹介してくださってありがとう。

ミハーハハ
2013年10月4日15:36

差別はいけないという自分の中に差別するこころがあるから理性でいけないと思っているのではないか、なんてまたおもったりして・・・

hana
2013年10月5日0:44

listerさん、こんばんは^^

糾すは「糾弾」
糺すは下賀茂神社の「糺の森」くらいにしか使わないので
どうもイメージが繋がりません。

差別については、「臭いものには蓋」的な扱いになっているんじゃないかな?と思ったりします。著者は差別をなくそう!と声高に言ってるのではなくて、誰でも差別発言や行為をするものだという前提での語り口なので、ぜんぜん啓発的な内容ではなく読み易いです。
キーワードは「普通を疑え!」かな?

今の私の関心はわが国に住む外国人ですが、彼らにとって一番の障害は言語でもなければ文化の違いでもなくて、マイノリティである彼ら・彼女らに対するステレオタイプの偏見そして差別です。

でも、もちろん「オバはんのくせに」という言葉にも過敏に反応しますよ!!
特に腹立たしいのは「《嫌いな》オッさん」に「オバはん」と言われることですww
「許せませんっ!!!」
などと言い返すと
「冗談がわからない」とか「オバはんのくせに大人気ない」「ええ歳して面倒くさい」とか。
これって二重苦ですよね→私にとって、だから言い返しませんけど
「仕方ない、許してやるわ!」と寛大な私 ww
実は面倒くさいだけなんですがね。

hana
2013年10月5日1:13

こんばんは、ミハーハハさん^^

偏見や差別は我が国に限ったことではなく、どこにでもある問題です。

>差別はいけないという自分の中に差別するこころがあるから理性でいけないと思っているのではないか、なんてまたおもったりして・・・

じゃあ、どうして差別することがいけないことなのか?
説明できますか?

実は私もちゃんと説明できません。
自身でどうにもできない国籍や民族、肌の色、性別、肉体的・心的障害など、
そういうことを見下したり、自分が優越感を感じてする行為が
人の心を傷つける、ことくらいにしか。

この本の著者も言っていますが、日常的に出会ったり、起こってしまう差別から距離をとったり、邪険にしたり、しっかり向き合わないそういう否定的な扱いが、差別に対する不当なバッシングでないか、と。
え~っと、話せば長くなるので、
もし機会があればご一読下さいね^^


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